太陽の塔


※当ページの情報は2005年頃に作成したものです。

「太陽の塔」は、1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)のテーマ「人類の進歩と調和」を紹介する政府出展のパビリオン「テーマ館」の一部としてつくられました。(万博のシンボルとして、ではありません。)作者は岡本太郎氏(1911年-1996年)、「芸術は爆発だ」の名言を残した芸術家です。高さは65メートル(地上部分)、基底部分の直径は20メートル、腕の長さは25メートルあります。

中央口、太陽の広場の前から
上の広場から

岡本太郎氏がこの「テーマ館」のプロデューサーを引き受けたとき、テーマ館の上部は、丹下健三氏の設計で高さ30メートル大屋根で覆う計画になっていました。しかし、工事現場を視察した岡本氏は「ベラボウなものを作る」として高さ70メートルの塔をつくることを決め、大屋根に穴を開けて、屋根から太陽の塔の顔がのぞくというものに計画が変更されました。丹下氏ら建築家は反対しましたが、結果として多くの人に受け入れられるものになりました。

塔にはいくつか顔があり、一番上にある金色の顔は「黄金の顔」、正面中央の顔は「太陽の顔」、背後は「黒い太陽の顔」と名づけられています。万博期間中は、地下(地底)に「地底の太陽の顔」もありましたが、終了後に撤去され、その後行方不明になっています。また、塔の地下部分も地上からは見えなくなっています。

「太陽の顔」
「黒い太陽の顔」

万博の開催期間中、塔の中に入ることができました。太陽の塔は、お祭り広場をおおっていた「大屋根」と一体に「テーマ館」となっており、内部には生命の進化を表現し、枝に恐竜やゴリラの模型が取り付けられた「生命の樹」が高さ約45メートルまで伸びていました。また、当時としては珍しかったエスカレーター4機とエレベーターが設置されており、上に上ることができて、手の部分から大屋根に出ることができました。なお、テーマ館で展示されていた展示品は現在、国立民族学博物館で保管されています。また、大屋根の一部はお祭り広場の低い位置に残されています。

万博のシンボルタワーとしてつくられた「エキスポタワー」は、2003年に解体・撤去されましたが、太陽の塔は1994年から1995年にかけて大規模な改修工事が行われ、永久に保存することになっています。改修工事は、日本万国博覧会記念協会が大阪高速鉄道(大阪モノレール)に敷地を車両基地のために一部売却して資金に余裕ができたため行われました。

万博終了後、大屋根が取り払われ、出入り口は作業用に残された地下の1ヶ所になり、消防法を満たす消火・非難設備が設置されていないことから、内部は一般公開されていません。しかし、内部は当時のままほとんど変わっていないようです。(2003年から2004年にかけて、管理する万博記念協会が万博記念機構へ改組したことを記念して、地下部分が特別公開されました。)

お祭り広場か

太陽の塔は、万博を象徴する建物として現在でも強いインパクトがある建物ですが、吹田市や北摂地域のシンボル的な存在にもなっています。実際、吹田市のマンホールには太陽の塔が描かれています。

太陽の塔は自然文化園内にあります。塔の近くへ行くには自然文化園の入園料が必要です。(塔の内部は公開されていません。)