かつて、万博記念公園には「エキスポタワー」が存在しました。エキスポタワーは、1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)のために建設されました。高さ127メートルのタワーは、閉幕後も残されていましたが、2002年に老朽化のため解体されることが決定。現在はその姿を見ることはできません。
スイタウェブでは、2002年に特集ページ「Good Bye Expo Tower」にて最期の姿をご紹介しましたが、20年が経過し、エキスポタワーの存在を知らない方が増えていること、インターネット上で得られる情報が限られていることを踏まえ、スマートフォン等に対応したレイアウトと、撮影時の高解像度の写真にて再編集しました。
2023年1月
エキスポタワー特集コンテンツ
Good Bye Expo Tower
エキスポタワー建設の経緯
大阪万博のシンボルタワー
エキスポタワーは、1970年大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(大阪万博)のランドマークタワーとしてつくられました。3本の柱が垂直に伸びた、鉄骨タワーの概念を打ち破る画期的な構造、近未来をイメージさせるデザインなど、他に例のないタワーで、着工から1年7ヶ月の1970年2月に完成しました。万博開幕まであと1ヶ月と迫ったときです。
完成まで多難のタワー
エキスポタワーの完成が万博開幕直前となったのにはいくつかの理由があります。1967年、万博シンボルゾーンにタワーの建設が計画され、三菱グループから施設参加の申し込みがありました。高さ350メートル以上、予算は40億円という壮大な計画が立ち上がりました。しかし、旧財閥系の他のグループが大阪国際空港(伊丹空港)への航空機進路の妨害となるとして計画に反対したため三菱グループは参加を断念、計画は白紙となりました。
結局、タワーは国庫補助事業として翌68年、7億5,000万円の予算で建設されることになりました。そこで、丹下建三氏をプロデューサーを中心として中心となる柱が4本で、高さ150メートル程度のタワーが設計されました。しかし、建設会社16社が提示した見積もりは14億2,000万円。特殊な工事であることもあり、予算を大幅に上回るものでした。その後、大幅な設計変更を行い、柱を4本から3本に、キャビネット数も減らすことになりました。また、当時まだ扱える業者が少なかった特殊な工法などを用いることで、高さ127メートル「エキスポタワー」が完成しました。当時は現在と違い、銀一色のタワーでした。
このように、度重なる設計変更があったため、パンフレットや記念切手などにデザインされているエキスポタワーには、実際に完成したものとは全く違ったデザインのものになっているものがあります。
万博期間中のタワー
万博期間中は、会場を一望できる展望台として人気がありました。高さ127メートルは通天閣(100メートル)よりも高いのです。また、千里丘陵(海抜65メートル)に建っていることもあり、見晴らしはすばらしいものでした。
また、無線設備も備え、報道や警備の中継基地としても機能していました。特に、国連館に朝日新聞本社から電波で万博会場に新聞の内容を送る「電送新聞」があり、万博会場とニューヨークを通信衛星インテルサット3号を通じて結び、ニューヨークタイムズの特別版を受信する実験も行われました。世界ではじめて衛星通信で新聞を送ることに成功する偉業に貢献したのです。
万博後のエキスポタワー
閉幕後のタワー
閉幕後、タワーは赤と白の2色に塗り替えられました。また、大阪万博の一部を遊園地として開業した「エキスポランド」(閉園済み)の施設の1つとして営業され、展望台として入ることができました。
しかし、老朽化が進んだため、1990年9月、展望台の営業を終了し、タワーは閉鎖されました。その後も目立った修理をされることなく放置状態でした。1991年、日本万国博覧会記念協会は大阪高速鉄道(大阪モノレール)に敷地を一部売却して資金に余裕ができたため、老朽化が進んでいた「太陽の塔」を永久保存のために補修しました。しかし、エキスポタワーは特に手を加えられることはありませんでした。
そして2002年3月、エキスポタワーは撤去が決定し、8月から工事が開始されることになりました。そして、2003年3月に撤去が完了し、タワーは姿を消しました。
タワー跡地の現在
跡地には、ヤノベケンジ氏がエキスポタワーの廃材を用いて作成した作品「タワー・オブ・ライフ」が置かれていましたが、ほどなくしてそれも撤去されました。現在は空き地となっています。敷地を管理する大阪府は、大型アリーナを中心とした再開発計画を進めていますが、エキスポタワー跡地はその対象外となっています。
タワー跡地の場所
エキスポタワー跡地は万博外周道路の南端付近にあります。万博記念公園駅からPanasonic Stadium Suitaへ続く階段の最上段付近にあり、外周道路からは木々が生い茂った丘のように見えています。
エキスポタワー跡地の地図(航空写真)
エキスポタワー 写真ギャラリー
大阪万博後のエキスポタワー
エキスポタワー解体工事の様子
エキスポタワー解体時のニュース
2002年3月28日
エキスポタワー 老朽化で撤去へ 万博公園
日本万国博覧会記念協会は27日、万博記念公園内の「エキスポタワー」(高さ127メートル)を老朽化のため撤去すると、発表した。タワーは1970年開催の日本万国博覧会のために建設され、レジャー施設「エキスポランド」のシンボルで、約148万人が利用した。8月に工事を始め、来年3月までに撤去するという。
毎日新聞
2002年9月11日
エキスポタワー撤去始まる 日本万博のシンボル
1970年の日本万国博覧会のため建設され、万博記念公園(大阪府吹田市)のレジャー施設、エキスポランドのシンボルだった「エキスポタワー」(高さ127メートル)の撤去工事が11日、始まった。
エキスポタワーは、建築家の菊竹清訓氏が設計した展望塔で、三本の鉄骨の周辺にドーム状の展望室が付く奇抜な形。万博終了後の72年、エキスポランドのオープンと同時に再公開され、老朽化で90年に閉鎖されるまで、約320万人が眺望を楽しんだ。
腐食した鉄製階段の手すりが強風で飛ばされるなど危険な状態になり、今年3月に撤去が決定。8月から準備を進めていた。
撤去工事は、まずタワーを囲むコンクリートの塀を壊し、11月から大型クレーンを使うなどし、タワーの部材を切断。来年3月に解体を完了する予定。
共同通信
2002年11月21日
「もう1度上りたかった」 万博・エキスポタワー解体始まる
1970年の日本万国博覧会のランドマークとして建てられた万博記念公園(大阪府吹田市)のエキスポタワー(高さ127メートル)本体の解体工事が21日午前、始まった。作業員約15人により塔頂部の3本の鉄骨が大型クレーンで切断され、地上に降ろす作業が続いた。
エキスポタワーは、3本の鉄柱にドーム形の展望室が取り付けられ、90年の閉鎖までに約320万人が訪れた。老朽化が進み、今年3月に撤去が決定。まず9月からタワーを囲むコンクリートの塀を壊す工事をしていた。
解体は万博の開幕が3月15日だったことに合わせ、来年3月15日ごろに完了する予定。
日本万国博覧会記念協会によると、タワーの一部を分けて欲しいとの問い合わせがあるため、解体した鉄材を使った記念品の製作も検討しているという。
タワーを写真に収めていた大阪府摂津市の男性(64)は「きょうがタワー本体の最期の姿と思って撮りに来た。もう1度上りたかった」と寂しそうに話した。
京都新聞
2003年8月2日
大阪万博エキスポタワーの一部でオブジェ制作
大阪万博(1970年)のシンボルだったエキスポタワーの廃材を使い、大阪府高槻市の現代美術作家ヤノベケンジさん(37)がオブジェを制作=写真。万博記念公園(吹田市)の国立国際美術館で2日、展示された。9月23日まで。
展望キャビンの窓枠などを使った直径約6メートル、高さ2・7メートルの円柱形で、作品名は「タワー・オブ・ライフ」。中にも入れる。昨年春、解体前のキャビンの床にコケが生えているのを見たヤノベさんが「再生する生命の躍動」を感じ、廃材を譲り受けた。
ヤノベさんには子どものころ見た万博会場の解体風景から着想した作品が多く、「形あるものは失われるが、作品に残すことで、再生を願うメッセージを伝えたい」。
読売新聞
エキスポタワー 建設概要
名称 | エキスポタワー |
所在地 | 大阪府 吹田市 千里万博公園1-1 |
調査・設計 | 関電工業、菊竹清訓建築事務所 |
施工 | 大成建設、大林組、鹿島建設、 清水建設、竹中工務店 JV(共同企業体) |
敷地面積 | 25,474平方メートル |
建築面積 | 176平方メートル |
延床面積 | 709平方メートル |
高さ | 127メートル |
構造 | 鉄筋コンクリート(柱脚) 立体トラス構造(主体) |
総事業費 | 約8億1,300万円 |